「遺骨がないと、故人に会えませんよ」 - 大分で海洋散骨 一般社団法人まるっと終活大分支援協会

「遺骨がないと、故人に会えませんよ」

不安を抱かせる言い方をする人がいますが…

墓じまいや海洋散骨、自然葬を選ぶ人が年々増えています。
その背景には、少子化・高齢化・都市化による“お墓を継げない”という社会情勢の変化があります。そんな中、このような言葉を口にする人たちがたまにいます。

「遺骨がないと、故人に会えませんよ」
「墓じまいなんて、罰が当たりますよ」
「仏壇がなければ、子どもが手を合わせられないでしょう」

その言葉の裏にあるのは、いったい誰の都合なのでしょうか?
当協会へ相談に来られる方の中に、“供養ビジネス”の人からこのように言われて悩んでいる方が一定の割合でいます。


想いではなく、物に依存させる仕組み

仏壇を売る人が、「仏壇がないと供養できません」、「位牌がないと先祖とつながれません」と言うそうです。ある僧侶は、「遺骨がないと手を合わせる場所がなくなりますよ」と言うそうです。本来、供養とは形ではなく、心で行うものでしょう。手を合わせる気持ちがあれば、そこがどこであっても“祈りの場”となります。しかし、仏具業界や僧侶の一部は、あたかも「供養とは物を揃えること」であるかのように語ります。

・仏壇がなければ祈れません
・位牌がなければ魂がさまよいます
・遺骨がなければ会えなくなります

それらは、果たして本当に“供養”なのでしょうか?
それとも、“買わせるための常套句”なのでしょうか?


商売のために「不安」を植え付ける構造

「子どものために、ちゃんとした仏壇を残しておかないと」
「将来、お墓がなかったら可哀想だから」
そういった親世代の心理を逆手にとるような営業トークは、今もなお多く見受けられます。

“あなたの大切な人が、さまよわないように”
“ちゃんと祀らなければ、祟りがあるかもしれません”

それはまるで、不安をベースにした商売の最たる姿ではないでしょうか。

人の悲しみに寄り添うのではなく、そこに「足りないモノがありますよ」と付け入る。

物を買わせることが目的になったとき、供養の本質は、もはや存在していないかもしれません。


仏壇や墓石は“必要”ではなく“選択肢”であるべき

もちろん、仏壇や墓石に価値がないとは言いません。
それらを通じて心が落ち着く人もいるし、家の伝統を守りたいという気持ちも尊重されるべきです。

しかしそれは、「あればありがたいもの」であって、「なければ不幸になるもの」ではありませんよね。

“モノを通じて想いが宿る”という考えを、“モノがないと想いが届かない”という論理にすり替えたようです。

本来、供養は自由なものであり、誰に指図されるものでもないはずです。供養のカタチは人それぞれです。そして、どこに居ても供養はできるハズです。


土葬の時代、骨は残されなかった。

日本が火葬中心の文化になったのは、実は昭和の時代からです。
それ以前はほとんどが土葬。人は遺体も骨もやがて全てが自然に還っていました。
手元に残る遺骨はなくとも、人々は故人に手を合わせ、心の中で語りかけてきたのです。

「遺骨がなければ故人に会えません」と言い切れるのでしょうか。


「墓じまいをしたらバチが当たる」
「仏壇がないなんて先祖不孝」

供養とは、亡き人と向き合う静かな時間です。家族のかたちが変わり、価値観が変わる今、供養もまた、もっと自由で、もっと本質的な形に還ってよいはずです。


最後に

仏壇がなくても、
墓がなくても、
遺骨がなくても。

故人を想うあなたの気持ちこそが、何よりも大切な供養です。
「買わなければ供養にならない」と言う人がいたら、静かに問いかけてみてください。

“それは、誰のための言葉ですか?”

想いは、いつでもあなたの中にあります。
そこには、商売も形式も、必要ありません。人それぞれ、いろんなカタチの供養があって良いハズです。自然葬は、昔に戻るだけです。

#墓じまい #海洋散骨 #仏壇じまい

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