私はまだまだ頑張れる。主人も至って健康。
でも歳には叶わないな…
60代になった途端、少しずつ体の老いを感じるようになってきていました。
見た目は健康。でもこの健康=幸せはいつまで続くかわからない…
ぼんやりと何となく自分のこれからの”残り”を意識しはじめた時、同じように先の見えない不安が少しずつ増えていったような気がします。
健康なまま今まで過ごして来れました
私は、幼少の頃、ぜんそくの症状がひどくて両親に心配と迷惑をかける子どもでした。
「体機能を高めれば喘息を抑えることができる」と病院で教えられた後から、両親は私に水泳を勧めてくれました。
私のまわりに、習い事をするこどもなんてほとんどいませんでした。習い事や塾なんて、今の時代でこそ当たり前に思われていますが、当時は「女にお金をかける習い事や塾は不要」「病院にいけば良い」というのが世の常識。
そんな時代にもかかわらず、両親は私に水泳を習われてくれたわけです。
私は少しずつ体力をつけて、中学を卒業するころには喘息はすっかり治まり、水泳でも大会記録を出せるほど丈夫な体になっていました。
丈夫な体に過信するほど気も心も若くいられた
高校を卒業して就職した先は木材店の事務職でした。
毎日慣れない計算ばかりをして、一日中すわりっぱなしの仕事です。
体が丈夫になってからというもの、いろんな運動やスポーツにチャレンジするのが楽しみになっていた頃で、動けないストレスというものを感じていましたね。
体の健康は手に入れても、気持ちの健康がなくなってしまったようで、この頃は気分がいつも落ち込んでいたように思います。
それでも、持ち前の負けん気に任せて、信頼を得るために、体力にものを言わせて仕事をバリバリやりましたよ。
解消しないストレスのはけ口は、登山とスキーでしたね。水泳は当たり前のように続けていましたが、心肺機能を高められる全身運動に目覚めて、休みのたんびに季節を問わず、家族みんなでどこかの山に出かけていました。
若いころって、十分に睡眠が取れなくても、食べていりゃどうにかなったんですよね(笑)
睡眠を削って、自分の気持ちを保つために体を動かしていたような生活でした。
体がしんどくても、本当に楽しい毎日でしたよ。気も心も健康でいることって本当に大事ですよね。
「老いに勝てない」と感じた不安
50代の頃までは、それこそ「あの人いつも動いて何かしてるけど、本当に元気よね」「いつ休んでいるのかしら」と、周りが心配するほど動き回っていました。
それだけ体も心も元気だった、という証拠です。
ただ、社会に出てからずっとお世話になっていた木材店が、時代の流れと景気のせいで倒産し、仕事を失った時期がありました。
事務職の経歴を買われて、すぐに再就職できたのですが、慣れない職場の業務はやはり心に負担になります。
この時、人生で初めて「つかれた…動けない」と思いました。
1週間ほどで体力は回復しましたが、気持ちと体、両方を備えないと人間ってこんなにも変わってしまうんだ…と思いましたね。
大病もせずに、順風満帆でここまで過ごしてきました。ちょうど子どもが育ち上がったタイミングだったし、子育ての緊張もほぐれたのかもしれません。
育ててきた子どもたちが大人になる。自分もその分、歳を取っている。新しい環境でなかなかついて行けない。
ある日ふと、「加齢・老い・老化」という言葉が自分に一気に降りかかってきたように感じた時がありました。
これから何十年後かに自分は死ぬんだな。そんなこと、今まで考えたこともなかったのですが、こんなふうに思った瞬間から、ぼんやりと何かが怖くなりました。
自分の最期を決めておくことは大事
ぼんやりと、何となく怖い…これはきっと、「自分がこれからいつまで健康な毎日を送れるのか」「自分がこの世からいなくなったらどうなるのか」なんですよね。
もちろん、死ぬ前はいろいろ痛いこともしんどいこともあるでしょうし。大病や入院をしたことがないから、それがどれだけ辛いかもわからないんですけど。
それよりも、家族にかける負担や手間の方が、私にとっては心配でした。
「何となく不安だ」といってクサクサして過ごすのもイヤだったので、主人に思い切って相談しました。
お互いに両親は他界していますし、それぞれの家のお墓をどうするのか。私たちが死んだらどうするか。
唐突に話をしたのですが、主人もこれまで、どことなく不安に感じていたのでしょう。すんなり話の席に応じてくれ、前向きに考えはじめました。
私たち夫婦の思いは「子どもの人生の足かせにはならない」こと。これを起点に考えれば、自然と答えは出ました。
両家の家墓の継承を、兄弟に任せられるかどうか。私は一人っ子なので、私の家墓を次に委ねることはしないと、ここではっきり決められました。
夫の家墓は実家にいる兄夫婦に任せられそうだけれども、「その墓に自分が入るかといわれると違う気がする」という主人。
そうなると話は早い!(笑)「2人でどこか納めてもらえるところを探して、そこに私の家墓の墓じまいをお願いしよう」となったのです。
あるべき「カタチ」にこだわらない方が良い
「まだ死んでないのに?」と主人には笑われましたが、死んでからじゃ、それだけで子どもの手を充てにしていることになりますしね。
私たちが生きているうちに段取りしておくことが大事なんです。
法要の機会を見て、私の家墓は墓じまいしようと思います。
遺骨をお任せできる場所が、これから私の家墓の代わりになるわけです。
両親に会いに墓参りはしたい。でもお墓は要らない。こんなわがままが叶うのか?といろんな情報を集めましたよ(笑)
お寺の納骨堂へ移して頂くことも考えましたが…管理やら何やらで結局お墓と変わらないのはちょっと…。
そこで出会ったんですよ。海洋散骨に。「そう、これこれ、このカタチよ!」と思いましたね。
海に行けば故人を偲ぶことができる。そして遺骨は自然にかえる。
お墓参りは海です。お墓は要なんてムチャが、海洋散骨なら私の理想が叶うんですよ。
まだ主人には話せていないのですが、きっと「良いじゃない」といってくれるはず。