「死んだら墓に入るもの」 「お墓がないと供養にならない」と僧侶や仏具屋の一部が主張する。
そんな常識に、違和感を覚えたことはありませんか?
実際、多くの人が無意識のうちに「死んだあとはお墓に入るのが当たり前」と思い込んでいます。 しかし、私たちが信じているこの“お墓の通念”は、実はそれほど古いものではありません。
今回は、「お墓は必須なのか?」という疑問を出発点に、 現代の供養のあり方、そして未来に向けた“自由な葬送”について考えてみましょう。
「家族墓」は実は“昭和生まれ”の文化
「代々墓(るいだいぼ)」「家族墓」という言葉は、いかにも古くからありそうですが、 実はこの文化が一般化したのは墓地埋葬法が制定された昭和の時代のこと。この頃から、「個人が家ごとにお墓を持つ」という価値観が定着したに過ぎません。
それ以前、日本の多くの人々は地域の共同墓地などに埋葬されており、 いまのように“墓石を建てて代々守る”というスタイルは一部の富裕層を除いて一般的ではありませんでした。
つまり、「お墓がないといけない」という発想そのものが、 昭和の一時代の生活様式に根ざした“近代的常識”であるとも言えるのです。
では、日本の“本来の葬送”とは何だったのか?
私たちが忘れてはならないのは、 自然葬こそ、古来の日本人が行ってきた葬送の原点だということです。
土葬、水葬、 地域や時代によって様式は異なりますが、 自然に還ることを前提とした葬送は、日本のみならず世界中で長く行われてきました。
火葬の普及や法律の整備によって「骨壺に収めて墓に納める」ことが定着しましたが、 本来、死とは“自然に還る営み”でした。
墓の維持は、これからますます困難になる
今後、ますます深刻化するのが「墓守問題」です。
少子化・未婚化・核家族化の進行によって、 「お墓を継ぐ人がいない」「墓参りできる家族がいない」というケースは急増しています。
実際、地方では無縁墓や放置墓地の問題が顕在化しており、 行政による撤去や整理も進められつつあります。
つまり、これからの時代に「墓を持つこと」自体がリスクになり得るという現実があるのです。
「墓は心の中にある」という考え方
墓がないと弔えない。そんなことはありません。
仏壇に手を合わせる。 命日に好きだった料理を作って語りかける。 写真に話しかける。 海に行って静かに手を合わせ先祖と対話をする。
それもすべて、立派な供養のかたちです。
供養とは“気持ち”であり、“想い”であり、“つながり”のこと。 お墓という「場所」がなければ祈れないわけではありません。
むしろ、物理的な拠点に縛られないからこそ、 日常の中に自然と祈りが溶け込んでいく。 そういう供養の形が、これからのスタンダードになるかもしれません。
これからの供養は「選べる時代」へ
誰もが同じ形式で葬られる必要はないはずです。 故人と遺族、それぞれの価値観やライフスタイルに合った、自由な供養でいい。
お墓を持たない「海洋散骨」 、手元で祈る「手元供養」 ・お寺に委ねる「合葬墓」。
これからの供養は、 「選ぶことができる」「納得して見送れる」ことが、何よりも大切です。
「死んだら墓に入る」という“縛り”を、手放そう
「お墓がないと死ねない」なんて、そんなことはありません。
お墓は、故人の魂を閉じ込める場所ではなく、 その人を想い続ける“ひとつの手段”でしかないのです。
大切なのは、かたちではなく気持ち。 その人とのつながりを、どんな形で残したいか。 それを、自分たちで選んでいい時代になったのです。
あなたの祈りが、あなたらしく続いていくように。 今こそ、「供養の自由」を、私たち自身が取り戻すときかもしれません。
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私たちは大分で活動する有志の団体です。