「子どもに負担をかけたくない」——親世代が選ぶ、負担を掛けない供養のかたち - 大分で海洋散骨 一般社団法人まるっと終活大分支援協会

「子どもに負担をかけたくない」——親世代が選ぶ、負担を掛けない供養のかたち

「自分が亡くなった後、子どもに迷惑をかけたくない」
そう語るご年配の方が、年々増えています。

少子化や核家族化、都市部への人口集中。
親と子が離れて暮らすことが当たり前になった今、
先祖代々のお墓を守るという仕組み自体が、現代の暮らしに合わなくなってきているのかもしれません。

そんな中で、いま注目されているのが、
「墓じまい」と「海洋散骨」。


実家のお墓、誰が守るのか?

親世代が大切に守ってきた実家のお墓。
その行く末に不安を抱く方は少なくありません。

「自分たちが亡くなった後、誰がこのお墓を管理するのだろうか?」
「遠くに住む子どもたちに、毎年お墓参りをさせるのは酷かもしれない」
「金銭的にも、精神的にも重荷になってしまわないか」

そうした不安から、自分の代でお墓を整理しようと考える方が増えているのです。

けれど同時に、こんな心配の声も聞こえてきます。
「お墓をなくすなんて、バチが当たるんじゃないか」
「散骨してしまったら、供養できなくなるのでは?」

そんなときこそ、
供養の本質とは何かを考えるチャンスかもしれません。


供養は“お墓”でするもの?

私たちはいつの間にか、
「供養はお墓で行うもの」「遺骨がなければ供養できない」
と思い込んでしまってはいないでしょうか?

しかし実際は、供養と埋葬は、もともと別のものでした。

たとえば、かつての日本では「土葬」が一般的でした。
亡くなった人は土に埋められていました。
骨を取り出すこともなく、墓石が立てられない場合も多々ありました。

それでも、供養は日々行われていました。
家の中にある仏壇。そこに向かって手を合わせるという文化が、日本には古くからあるのです。


目に見えない存在を敬う、形代(かたしろ)の文化

日本には、「形代(かたしろ)」という伝統的な考え方があります。
これは、神仏やご先祖といった目には見えない存在を、
紙や木、位牌、過去帳などに象徴させることで、そこに心を込めて祈るという文化です。

つまり、供養とは、
遺骨に手を合わせるのではなく、
“想い”を通じてつながり続けること。

仏壇や位牌はまさにその象徴であり、
ご先祖を敬い、感謝し、心の中に生き続けてもらうための「かたち」です。


海洋散骨は、負担のない供養の選択肢

お墓じまいしたあとに、遺骨整理として選ばれる「海洋散骨」は、
ご遺骨を細かく粉骨し、海に還すという自然葬の一つです。

海に還るという行為は、単なる“処分”ではありません。
それは、大切な人を自然に返すという節目であり、
遺された家族にとっても、ひとつの“心の区切り”となります。

「お墓がないから手を合わせられない」と思われるかもしれませんが、
実際には多くの方が、仏壇の前や、自宅のリビングの写真、命日には空を見上げて
それぞれの場所で、心の中でしっかりと手を合わせ「対話」をしています。

遺骨がなくても、そこにはしっかりと祈りがあります。
供養は、どこでするかではなく、どう想うか。

それが本来の姿なのかもしれません。


「安心して旅立てる準備」をするということ

私たちは皆、いずれ必ずそのときを迎えます。
だからこそ、
「残された家族に、できるだけ負担をかけたくない」
「できることは自分の代で済ませておきたい」
そう考える親世代の想いは、深くて、やさしいものです。

墓じまいと海洋散骨は、
そうした“親の愛”の表れでもあるのです。

実際に当協会にご相談くださる方の中にも、
「子どもに何も残さなくていい、ただ、負担はかけたくない」
とおっしゃる方がたくさんいらっしゃいます。

そんな方々が、
「海に還すという選択にして、本当によかった」
「心がすっと軽くなった」
と笑顔で語ってくださるたびに、
この供養のかたちは、たしかに“誰かを想う優しさ”だと感じるのです。


お墓が無ければ供養できない?

「お墓がなければ供養できない」
そう思う方もいるかもしれません。

心から手を合わせる場所があれば、
そこが仏壇でも、写真の前でも、海でも、
それは十分に供養でしょう。

親が選ぶ、子どもに負担をかけない新しい供養のかたち。
それは、
未来の家族のために用意された、最後のやさしさ。

これからの時代にふさわしい“見えない絆”の残し方として、
墓じまいと自然葬―とくに海洋散骨という選択が、
多くの人の心に届いていくことを願っています。

#墓じまい #海洋散骨 #佐伯市

タイトルとURLをコピーしました