ここ10年くらいの間に、日本全国で自然災害が起こりましたよね。
特に九州では、豪雨や地震といった、人の力では止めようもない災害が本当に多くありました。
正直、一度自然災害が起こると、どうしようもない疲労感と虚無感に堕ちます。「人間って無力だ」と感じるんです。
当たり前だった毎日も、暮らしていた環境も、いっぺんに、しかもあっという間に消し去ってしまうんですから。
震災でお墓を失いました
数年前、福岡ではとんでもなく大きな水害に見舞われました。
その前には隣県の熊本で大地震があり、私が住んでいる山あいの村も、何度も揺れて怖い思いをしましたよ。
地震で地盤がゆるんでいたのでしょうか、集中豪雨があった時に、村は数時間の間にあっという間に川の水に飲み込まれてしまいました。
住んでいた家も、作業していた畑も一気に押し流されて、車が町の中を流れていくさまを見た時は、本当に「この世の終わりだ」と思いましたね。
町中泥だらけで、自分がどうやって生きていこうかと途方に暮れていた数日が経って、先代から守ってきた墓石も無くなったことに気づきました。
お墓のあった場所が山の地すべりで埋まってしまい、近づくことさえできませんでした。
1ヶ月ほどたって、復旧作業が進んでやっとお墓があった場所に行けるようになりましたが、更地にしたかのように何にも残っていなかったんです。
何とか遺骨を探し出そうと、いろんな人に協力してもらって、半年後に骨壺を見つけました。でも、正直言ってお墓をまた建てるお金の余裕もありません。
だって、今でも住む家に困っているほどですから。
大分県で海洋散骨をお願いすることに決めて
お墓のことはもちろん気がかりでした。自分の両親が眠っているお墓に、当然自分も入るもんだと思っていましたからね。
でも、そのお墓が無くなってしまったのですから、もうどうしようもありません。
遺骨を手元に持っておこうかとも思いましたが、その骨は子どもにいずれ委ねることになるわけで。
「いつかどうにかしなきゃならないのなら、私が責任をもって弔う方法を選ぼう」と考えて、近所の人にも相談しました。
そこで、海洋散骨という方法を教えてもらったのですが…初めは気が乗りませんでした。手を合わせるシンボル=お墓が無くなるのはいかがなものかと。
でも、よくよく考えれば、災害で遺骨を見つけられなければ地に埋まったまま、なわけですし、亡くなった方の遺骨をお墓にしまい込んで奉るのも、現生の人間のエゴなのかもしれない。そう思って、海洋散骨をお願いしました。
豪雨の災害に遭って、自分の命のことも考えるようになって、その尊さや弔いの考え方が、この歳にしてものすごく変わりました。
墓守を一代先の身内責任にして死んでいくより、気兼ねなく故人を弔いながら生きていくほうが、先代の家族も生きている家族もみんな幸せなんじゃないですかね。
ですから、「私が死んだ時も同じ海で海洋散骨をしてくれ」と息子に伝えています。
今じゃ、「墓参りに帰ってこい!」と県外に住んでいる息子に無理強いしていた頃より、気持ちが晴れやかです。