大分県で海洋散骨のススメ/未来につながる自然葬 - 大分で海洋散骨 一般社団法人まるっと終活大分支援協会

大分県で海洋散骨のススメ/未来につながる自然葬

ほんの数十年前までは、自分と近しい誰かの葬儀や法要=悲しいものというイメージを抱く人が多かったように感じます。

現生の世界から、どのようにしてあちらの世界(死後)に行ったか…という事情によっても寂しさや悲しさの具合は違うでしょう。ただ近年、今を健康に過ごしつつ、「もしも自分が天寿を全うしたら」といった想像をする人が増えて、いくらか前向きな風潮が感じられるようになってきました。

人生の延長上に望む供養の方法を

砂時計の写真

家族のことや、遠い祖先のことはさておき、『自分がどうしたいのか?』を、ひと昔前よりもフランクに考えられる世の中になってきたように感じることも増えてきました。

中でも最近、頻繁に”自然葬”や”永代供養”、”納骨堂”という言葉を、葬祭業界の間で見かけるようになっています。

時代の流れに沿って生活が変わっていったように、弔いへの考え方や様式が変化するのも、いわば当然のことです。

葬儀や遺骨の行方も、亡くなった後に親族が考えることではなく、「生きている間に自分が、自分のタイミングで」考える人が増えてきているということでしょう。

家族に対する考え方が少しずつ変わり、世界が広いようでカンタンにつながれる世の中になりました。

今年は、コロナ禍の自粛生活で、今までよりまた一歩先の”身近な人との距離も遠くなりえる”時代に突入したように感じます。

葬儀にもいろんな制限や禁忌がかかるかもしれない、いわば「死」を誰もがすこし現実的に考えた年ともいえるでしょう。

人の”生”=記憶というとらえ方

自分の弔われ方を想像して、その気持ちを記したり、生前の願いを自分で叶えて準備する「終活」という言葉が世に広まりつつあります。

相続や贈与が代表的なもののように思われがちですが、自分が望む葬儀の方法を示しておくことは終活項目に欠かせません。

自分が亡くなった後に、”自分”をどうしたいのか?

よほど揺るがない一族の決まりがある人は別事情ですが、何十年も生きてきた自分の身体へのねぎらいはひとしおでしょうし、そこには自分にしか分からない、近しい人でもすべてを理解することはできない”感情”があるはずです。

生きていればいろんな考えを持ち、感情や理想を持ちながら毎日を過ごします。

そして、どんなことをしてきたか、そしてどのように感じたか。次をどうしたいか。記憶と思考をくり返すことこそが生きている事のように思いませんか。

感情と考えることが生きている実感。人の生=記憶の重なりのようにもとらえられます。

遺族は亡き人を記憶しているから偲ぶ感情が沸いて、当の故人は、命尽きた瞬間に記憶を閉じる…。

積み重ねた自分の命=記憶が途絶えた瞬間、故人は無になり自然にとけこんでいるような気さえしてきます。

生命活動に身を還す自然葬

植物が発芽したばかりの写真

一人ひとり、個が尊重される時代になり、自分の思いや気持ちを素直に表すことを受け入れる世の中に変わって、いま、自然葬が見直されています。

人間の亡骸を海にかえすという意味でとらえれば、日本は土葬を行っていました。そして、時代は進み、昔よりもずっと短い時間で遺骨を自然にとけ込ませることもできるようになっています。

輪廻という言葉を、人の身体と自然への回帰に照らしてみれば、いろんな技術が進んで、生まれ変わる・自然に還るスピードまでも、時代と共に早まっています。

何かとせわしい現代です。

自然と生命の循環する速度も早まり、加速度的に時代が進みテクノロジーの発展も留まるところを知りません。

だから人は自然を愛し、自然に安らぐのかもしれませんね。

長くても100年ほどの「人」という生命は、地球の歴史と比べればほんの一瞬かもしれませんが、その一瞬をくり返して自然が巡り作られているのだとすれば、自然は生命が必ず還る場所です。

海にかこまれた環境に癒しや安らぎを感じながら、ふと故人を思い出し懐かしむ。

この世にいる遺族は、故人の記憶が続く限り思い出すことが供養となり、世代を重ねて先祖に思いをはせることで永代の供養につながっていくのではないでしょうか。

海は地球の70%、陸地は30%と言われています。また、赤ちゃんの時にいる母親の胎内は海水の成分と言われてます。すべての生物は海からとも言われています。

いろいろな角度で地球を見たとき、割合がいちばん大きいところを「水球」、陸の割合がいちばん大きいところを「球」といいますが、水球ではおよそ90%が球でもおよそ50%がです。

死んだら、、、母なる海へ還る選択もいいものです。なんだか浄化されそうですしね。(笑)

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