5年前、私の子どもが結婚して孫が生まれ、おばあちゃんになりました。
子育てをしていた時と違って、孫というのは本当に、無条件にかわいいものですね。
子ども世帯は関東で生活しているので、実家に戻ってくるのはせいぜい年1回。盆正月の長期休暇のタイミングで帰ってくるか来ないかという感じです。
スマホに写真や動画を送ってもらって、孫の様子を見るのが私の楽しみになっています。
先日、義父の3回忌法要を執り行った時、子どもたちも帰省したのですが、いつもはニコニコと楽しそうに過ごしている孫の機嫌がどうも良くありませんでした。
ぐずっては泣き、精進料理をみんなで食べる時も「ここで食べたくない」と仏間から飛び出す始末。
「みんな黒い服を着て、部屋の中が暗ーいのがイヤだった」と、法要が終わった後に孫から聞きました。
法要を行う意味を考えさせられて
3回忌が終わって、みんなでお墓参りに行ったのですが、そこでも孫はずっと泣きじゃくっていました。
お嫁さんが「パパの大事な人たちがここでねんねしているんだよ」と優しく話をしたのですが、「こんな狭い所に入れられるの?ずっと?かわいそうだよ」「パパもママもじいもばあもみんな笑ってないもん」「おまいりってこわいの?」というばかり。
幼い子どもは正直ですね。「空気を読む」のは大人の事情ですから。
葬儀の時であれば、故人との別れを偲んで泣いたり落ち込んだり、暗い空気になるのも仕方がありません。
でも、久しぶりに親族が集まって故人の法要をする時や、お墓参りをする時、「住職に失礼がないように」「笑うのは不謹慎だ」と思って、あえて暗い雰囲気にしてしまっていた自分に気づかされました。
大声を出して笑ったりするのはともかく、ですが、先祖に失礼がないようなふるまいをしつつも、険しい表情を作る必要もなく、むしろ穏やかな気持ちで素直に居る方が自然なことのように思えてきました。
法要って、あちらの世界に行った方々を偲びつつ弔い、敬い、生前の姿に思いを馳せることだと思っています。
ならば悲しい、暗い顔をする必要もないし、過去の悲しさを忘れられなくても、元気な様子を報告したり、近況を心で語ったり…。私は、そんな法要やお墓参りが良いなと思ったのです。
お墓参りにいつでも来られる雰囲気も大事
孫にとって仏間やお墓は、「固くて黒くて冷たいところ」に見えるのだそうです。実際に…そうかもしれませんね。
何度かお墓の納骨室を見ましたが、開けた途端に、どんよりと冷たい空気が一気に外へ流れ出てきたのを覚えています。まるで「開かずの小室」のようでした。
そういえば、私も、その冷たい空気を肌に受けて「おじいちゃんたちの魂が出ていったみたい」と感じたことがあったと、孫の言葉を聞いて思い出したんです。
「閉じ込めてかわいそうだな、でもお墓に入るってそういうこと」だと思っていました。
自分が亡くなった後、子どもや孫に「怖いところだけど行かなくてはならない」と、義務感のように思って欲しくはないです。
盆や法要の時だけでなく、いつでも「戻ってきたよ」とお話しに来るように会いに来てほしい。ちょっと悩んだ時や苦しい時、嬉しい時に「おばあちゃんに報告したい」と訪れてほしい。そんなふうに考えるようになりました。
子どもたちと”お墓の今後”について話そう
お墓守のことも心配ではありました。なかなか帰って来られない子ども達に、戻ってすぐお墓の掃除や手入れをさせて、あわただしくさせるのは親として忍びないと思っています。
それに、先祖が眠る墓はいずれ誰かが継ぐ前提、ですよね。
死んだ後には感情がない(でしょう)から、「遺骨をどうこうされた」と恨み節を子どもたちにぶつけることはないでしょうが、粗末に扱われたくないとは思います。
ならは、お墓にずっと入れておけば何の問題もなく安心なのか?と思ってしまうんです。あの冷たい納骨室の様子を見てしまうと、なおさらです。
いろんなことを考えるうちに、
・自分は明るくて広いところに遺骨を納めてほしい
・家族がいつでも思い出してくれるようにしたい
ならば、海に散骨してもらうのが私の理想だ!という結論に達してしまいました。
この話を主人にすれば、きっと「先祖の墓はどうするんだ」と鼻息が荒くなるかもしれませんね。でも、これまでの流れを継ぐことだけが重要じゃなくて、時代が変わるように、弔いの形や納骨の仕方も変わっていくはず。
子どもや孫が、もしかしたら「こんな暗い所に納めるのはイヤだ」と言うかもしれません。
極端にいえば、墓に入らずに私だけは海で供養をしてもらう方法もありますしね。ただ、後々家族にしこりを残さない方法を、時間をかけてみんなで分かち合って行かなければいけないと思っています。