何十年も子育てをして、家事と育児の合間に家計を支えるためパートで働いてきました。
子どもは所帯を持って、他県で生活しています。
今、私は趣味の社交ダンスに情熱を注いで健康づくりに励む毎日を送っています。
そんな社交ダンスを通じて出会った、「なんか、いいなぁ」って思った仲間の話です。
母の責任が終わって自分を大事に
子育てって、毎日の自分時間がすべて子どものために使われちゃうんですよね。
イクメンとか、イクパパなんて、最近の男の人は子育てや家事に協力的な人も多いらしいし、すごく良い時代になりましたよね。
それでも母親の役割って、どこか特別じゃない?と思っていたから子育ても乗り越えられたんですよ。
そして、子どもが結婚して子育て終了!となった瞬間、「自分って何?」ってなっちゃって。一時は、もう生きがいをなくした抜け殻みたいでした。
「とりあえず時代についていこう」と思って、子どもにスマホの使い方を習ってLINEを始めたんです。インターネットで、健康に良くて楽しい運動がないか調べて、社交ダンスを始めることにしました。
もともと運動は好きで、でも時間が無くて諦めていたんです。今さらバリバリに運動なんてやる体力もないし、ちょっと踊ってみたいな…と憧れもあったし。
あのキラキラした衣装、身に付けて軽やかに踊ってみたいなって思って始めた途端、どっぷりとハマってしまいました。
趣味を通じて知り合った人たちの関係性
社交ダンスだけじゃなくて、知り合った方たちと過ごす時間も、本当に楽しいんです。LINEで教室にいく時間を打ち合わせたり、その後みんなでお茶しに行ったり。
お友達と呼べる人たちと過ごす時間って、自分にとって大事な時間だし、そこで英気をやしなって家族にも優しく出来たり。良いことが連鎖する感じがしています。
そんな折、ずっとダンス教室をお休みしていたおじ様(90歳)が亡くなったと聞きました。背筋もしゃんと伸びて、シュッとしたたたずまいで、カッコイイおじいちゃんというかんじの方で、とてもショックを受けましたね。
教室のみんなでお参りに伺いました。
ご親族の方々に、「生前、生き生きと過ごせたのは皆さんのおかげです」と言われて、カンタンに友達というくくりではなくて、それ以上の「仲間」という感覚が教室の人の中にあるんだと、改めて気づかされました。
自然葬を選んだ仲間に生きざまを感じて
子育ての間はずっと”母”であり”妻”という肩書がずっと自分の肩に乗っているような感覚でした。
仲間を通じて、”自分”として生きることがどんなにステキなことか思い知りました。
そして、亡くなった仲間は今、海洋散骨を選び海にいます。
「僕は自由でいたいし、家族に負担もかけたくないんだよ。だから自分のためのお墓なんて要らないし、形式の法要もいらない。僕はたまに誰かに思い出してもらえれば十分さ」
生前、何度かこんなことを言っているのを聞いて。その時は「縁起でもないこと言わないでくださいよ。そんなに元気なんだから、まだあちらからお呼びじゃないですよ」なんて話していたんですけどね。
息子さんにあいさつをした時、「家族にその後を任せたら、きっとお墓を建てるだろうと思ったんでしょうね。亡くなる際になって『墓は建てるな、窮屈だ』なんてうわごとを言われちゃ、その気もなくなりますよ。あの人ならこうするだろうなって、海洋散骨に行き着いたんです」と言っておられて…。
亡くなって寂しいですよ。でもね、彼らしくてカッコイイって思ったんです。
自然界となじんで思い出になる
今でも、社交ダンス教室には仲間同士で撮った写真をたくさん飾っていて、亡くなった彼の話もしますよ。
「この曲の時にいつも私が間違えて、ちょっとムッとしてたの」とか。
「あ、あの人がそろそろ教室に来る時間だ」とか。こうやって、思い出す・忘れない・今でも楽しい時間を共有している気持ちが、きっと彼の望んだことなんだろうなって思います。
お墓に入った故人であれば、何となく物悲しさや冷たい、寂しい感情が強くなりそうな気がするじゃないですか。
そうじゃなくて、風が吹いたり木の緑が鮮やかだったり、海がキラキラってしているのを見るたびに、「あ、あの人がここにいるのかも」なんて自然にとけ込んでいるような目で見えるんですよね。ちょっと私の想像も行きすぎかしら。
本当に、ステキな人だったし、ステキな思い出だし、私もそうでありたい。と思いますね。
つれあいがいれば難しいこともあるだろうけど、先々、どちらかが先に亡くなって待ち合わせをするとこも、「海で待ち合わせね」なんてことも悪くないな。と考えたりしています。