「お墓がないと、あの人に会えない?」 - 大分で海洋散骨 一般社団法人まるっと終活大分支援協会

「お墓がないと、あの人に会えない?」

☑仏壇を処分したいんですが、罰があたるって言われて迷ってます
☑墓じまいを考えているけど、親戚に言い出せなくて…
☑遺骨がなくなったら、母に会えなくなる気がする

そんな声を、私たちは日々耳にします。
仏壇やお墓を手放すという選択には、罪悪感や不安がつきまとうものです。
しかし、そこで立ち止まって問いたいのです。

「故人と向き合う場所」は、本当に“そこにしかない”のでしょうか?

供養の本質とは何か。
仏壇処分、墓じまい、そして自然葬という流れの中で、
私たちはもう一度、“祈りの原点”に立ち返る時を迎えているのかもしれません。


■ 家の中の「供養」は、いつから“常識”になったのか?

仏壇は日本の家庭に長らく存在してきたものですが、
そのルーツをたどると、江戸時代の檀家制度に行き着きます。

人々が仏教寺院と“戸籍のように結びつけられた”この制度により、
家ごとに仏壇を持ち、先祖を祀るという習慣が生まれました。当時、人が亡くなると所属しているお寺の僧侶が枕教をあげ、同時に僧侶が死んだ人を戸籍から決していたそうです。つまり、お寺が戸籍の管理をしていたのす。

つまり、仏壇は「宗教」と「行政」が一体となった
国家主導のシステムの中で庶民に広がっていきました。

しかしその後、制度がなくなっても
仏壇は「先祖を大切にする日本人の心」として定着しました。

それ自体は美しい文化ですが、
問題は、“仏壇を持たない=先祖不孝”という風潮が残ったこと。
その背景には、仏具業界や寺院の“経済的依存”も見え隠れします。


■ 墓は「家族の証」か「重荷」か

お墓もまた、「家」を軸に成り立つ存在でした。
明治以降、火葬が一般化し、墓地埋葬法(昭和23年)によって
“遺骨は許可された墓地に納めなければならない”と定められます。

ここから、家族ごとに墓地を持ち、
代々骨壺を納めていくという供養のスタイルが生まれました。

ところが、現代社会ではこの仕組みに
明らかな“ひずみ”が生まれています。

・子どもが遠方に住んでいて、墓守ができない
・子どもに継がせるのが申し訳ない
・兄弟が分家して、誰が管理するか揉めている
・そもそも子どもがいない、未婚、あるいはひとり親世帯、娘しかいない

こうした現実を前に、多くの人が「墓じまい」を考えるようになりました。
これは、「供養を終わらせる」のではなく、
“無理なく供養できる形に整える”ための選択なのです。


■ 「遺骨がないと供養できない」という呪縛

仏壇や墓を手放すとき、多くの人が口にする不安があります。
「遺骨がなくなったら、もう手を合わせられないんじゃないか」
「お墓がないと、あの人に会えなくなる気がする」

この不安には、宗教的というより、
消費的価値観が強く影響しているかも知れません。

・お墓を作らなければならない
・仏壇がなければ供養にならない
・戒名がないと成仏できない

こうした“決まりごと”は、本当に信仰から生まれたものでしょうか?
あるいは、売る人・管理する人の“都合”が入り込んでいないでしょうか?

私たちは、もう一度考える必要があります。
「遺骨があるから供養できる」のではなく、
「想いがあるから供養できる」のではないか、と。

本来の供養は遺骨や仏壇に手を合わせることたったのでしょうか?


■ 海洋散骨という「場所を持たない供養」

近年、急速に広まりつつあるのが海洋散骨です。
火葬された遺骨を粉骨し、船で沖合まで出て海へ還すという供養の形です。

海洋散骨には、こんな特徴があります。

・お墓を持たないため、子どもに継がせなくてよい
・管理費がかからない
・自然に還るという感覚が心に響く
・どこにいても、海を見れば手を合わせられる、綺麗なお別れができる

特に印象的なのは、
「海をお墓にしたら、世界中どこにいても会えるような気がする」
という言葉。

場所を固定しない供養だからこそ、
心の中で先祖との対話が自由になるのです。


■ 仏壇処分・墓じまい・散骨を“後ろめたく感じる理由”

「親の仏壇を手放すのが申し訳ない」
「先祖に怒られそうで、墓を閉じられない」
「本当は散骨したいけど、親戚の目が怖い」

こうした“供養に対する罪悪感”を抱く人は多いです。

でもその罪悪感の多くは、
「先祖のため」ではなく「周囲の視線」や「昔からの習慣」によるものです。

今、供養は“社会的な見栄”ではなく、
自分と故人の関係を見つめ直す行為に変わりつつあります。

「仏壇を処分したら、毎朝写真に手を合わせるようになった」
「墓じまいしてから、ようやく気持ちに区切りがついた」
「海に還して、心の中で会話するようになった」

それらはすべて、
モノを手放したからこそ深まった供養の形です。


■ 「祈りは自由でいい」これからの供養の話

これからの供養に、正解はありません。
仏壇を持ちたい人は持てばいい。
お墓を建てたい人は建てればいい。
でも、持てない人・建てない人に罪はない。

それぞれの暮らし方、生き方に合った供養のあり方を、
もっと認め合える社会になっていい。

供養とは本来、
「生きている人が、故人と心を通わせる」行為です。
それは形式ではなく、関係性の中に生まれるもの。

仏壇処分も、墓じまいも、海洋散骨も——
すべては、“供養をやめる”のではなく、
“供養の意味を、自分で問い直す”という営みなのです。


■ 手を合わせる場所は、あなたの心の中にある

「仏壇がなくても、毎朝母のことを思い出します」
「墓がなくなっても、海に向かって“ありがとう”と言えるようになりました」
「遺骨がなくても、その人の声が心の中に残っています」

いま、そんな言葉が静かに広がっています。

遺骨がなくても、仏壇がなくても、
あなたの心があれば、供養はいつでも、どこでもできる。

誰かの決めた“正しさ”より、
あなたの中にある“やさしさ”に従っていい。

モノから心へ。
かたちから想いへ。
供養のかたちは、確かに変わりつつあります。

そしてそれは、とても自然な変化なのです。

私たちは大分で活動する有志の団体です。

一般社団法人まるっと終活大分支援協会

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