かつて、「供養」とは、仏壇の前で手を合わせ、年に数回はお墓を訪ねる。
それは“当たり前の風景”として、日本人の生活に溶け込んでいた。
だが今、その風景が大きく変わろうとしている。
仏壇を処分する人が増え、墓じまいの相談が急増し、「お墓を持たない供養」の一つである海洋散骨を選ぶ人たちが、確実に増えている。
■ 第1章:仏壇とお墓が生まれた背景
私たちが“当たり前”だと思ってきた仏壇やお墓の文化は、実はそれほど古いものではなかった。
現在のような形の仏壇が一般家庭に普及し始めたのは、江戸時代以降といわれている。
特に檀家制度によって、家々が寺と強く結びつけられ、「仏壇は先祖を祀る家の中心」として位置づけられていった。
一方のお墓についても、かつては土葬が一般的で、家ごとに墓石を建てるという習慣は庶民にはあまりなかった。庶民が家墓を建てるようになったのはいつからだろうか?現代の“墓制度”を確立した昭和23年に制定された「墓地、埋葬等に関する法律(墓地埋葬法)」以降だと言われている。
この法律によって、火葬された遺骨は許可を得た墓地以外には埋葬できなくなった。
さらに戦後の道路整備や団地建設の流れの中で、
「家族単位で市営墓地に墓を建て、骨壺を収める」ことが常識となっていった。
しかし、そもそも人が亡くなったあとの供養や埋葬の形は、もっと自由で、もっと自然だったのだ。
■ 第2章:高度経済成長と“供養の制度化”
戦後の高度経済成長とともに、家制度が一気に解体されていく中で、仏壇とお墓は“家族の絆をつなぐもの”としての役割を担うようになった。
昭和の時代、どの家にも当たり前のように仏壇があり、先祖の位牌が並んでいた。年忌法要には親戚一同が集まり、墓参りは子どもにとっての“夏の行事”であった。ちょうどこの頃、「故郷」という言葉が多用されはじめ、お盆と正月には故郷へ帰省するという慣習が生まれた。
この時期に育った人々にとって、「仏壇を持つこと」「墓を建てること」は“供養の正しいかたち”として強く刷り込まれていった。
■ 第3章:社会構造の変化と「継げない供養」
しかし平成に入り、時代は大きく動き出す。
核家族化と少子化が進み、「長男が家を継ぎ、仏壇と墓を守る」というモデルが機能しなくなった。
・子どもが全員、都市部に出て戻らない
・そもそも子どもがいない、あるいは一人っ子
・マンション暮らしで仏壇を置くスペースもない
・お寺との付き合い方が分からない
こうした声が各地で聞かれるようになり、
やがて人々は静かに仏壇を処分し、墓を閉じ始めた。
「仏壇じまい」「墓じまい」――
それは先祖との縁を切る行為ではない。
“守れないものを、次の世代に無理に背負わせない”という愛情からの決断かもしれない。
■ 第4章:「遺骨を引き継ぐ」という前提を疑う
供養を語る上で忘れてはならないのが、
「遺骨を引き継ぐことが当たり前になったのは、法律の影響である」という事実だ。
昭和23年に制定された墓地埋葬法によって、
火葬された遺骨は“墓地に納めるもの”と位置づけられた。全国の自治体に火葬場が建てられ、行政により墓地を区画整理し、人々は家墓を建てた。これが、遺骨を骨壺に入れて保管し、家ごとに墓を建て、それを代々継承していくスタイルの起点である。
だが、この法律が制定される以前――
人々は土葬により、すべてを自然に返していた。
骨を拾い、壺に入れ、墓に納めるというのは、
あくまで“近代の習慣”に過ぎないのだ。
今、その常識が見直されつつある。
「遺骨を継がなくても、想いは継げる」
「供養は、物ではなく心でつながるもの」
そう考える人が増えている。
■ 第5章:海へ、自然へ——広がる自然葬の選択肢
こうした時代の流れの中で、注目されているのが自然葬である。
自然葬とは、遺骨を自然の中に還す供養の方法であり、
代表的なものに「海洋散骨」がある。
海洋散骨は、特定の場所を持たず、“海全体を供養の場”とする、新しい供養のスタイルとして広がっている。
・家族にお墓を残さず、自分の代で完結させたい
・自然に還るという考え方に共感する
・子どもに負担をかけたくない
こうした想いから、多くの人が海洋散骨を選ぶようになっている。
海に行けば、どこでも手を合わせることができる。
海は、国境も宗派も越えて、誰の心にも寄り添ってくれる場所だ。
■ 第6章:「供養」の再定義
仏壇も、お墓も、遺骨も、すべては「誰かを想い、祈る」ための手段。それが時代の中で“固定化”され、やがて「これが正しい供養だ」とされてきた。
しかし、今再び私たちは問われている。
供養とは、誰のためのものなのか?
それは、故人のためか。
家族のためか。
社会のためか。
答えは、おそらく「すべて」であり、そして「人それぞれちがう」である。
■ 第7章:これからの供養と、家族のかたち
未来の供養は、もっと多様で、もっと自由になるべきだ。
家族のあり方が変わった今、供養もまた変わっていい。
仏壇がなくても、心の中に語りかけられる。
お墓がなくても、写真に手を合わせられる。
遺骨がなくても、海を見て祈ることができる。
誰にも負担をかけず、
それでいて深くつながっている供養のかたち。
それが、これからの「供養」ではないだろうか。
■ 結びにかえて
仏壇処分、墓じまい、そして自然葬。
これらは決して、“供養の放棄”ではない。
時代と向き合いながら、家族と故人を想い、
自分らしい祈りの形を探していく行為である。
形ではなく、つながりで。
いま、私たち一人ひとりの中に、
“新しい供養のかたち”が芽生え始めていると感じる。
私たちは大分で活動する有志の団体です。