「遺骨がなければ、会えませんよ」 - 大分で海洋散骨 一般社団法人まるっと終活大分支援協会

「遺骨がなければ、会えませんよ」

その言葉に、あなたは何を感じますか?

「遺骨がないと、故人に会える場所がなくなりますよ」
「お墓をなくしたら、手を合わせる“よりどころ”がなくなってしまいますよ」
これは、墓じまいや海洋散骨を考えるご家族に対して、
僧侶や仏具店の一部がよく口にする言葉です。

一見もっともらしく聞こえるこのフレーズ。
でも、立ち止まって考えてみてほしいのです。
私たちは本当に、「遺骨があること」でしか故人に会えないのでしょうか?


遺骨の有無が、“会える・会えない”を決めるのか?

人は亡くなったあと、どこへ行くのでしょう。
仏教では“成仏”と語られ、
神道では“家の守り神”として子孫を見守る存在になるとされます。

そこに遺骨があるかどうかは、本来、関係ないはずです。

「遺骨がなければ故人に会えない」と言われた瞬間、
その人の存在が“骨壺の中に閉じ込められてしまった”ような気さえしてしまう。
でも、本当にそうでしょうか?その言葉を口にした相手を疑ってみてはいかがでしょうか?


土葬の時代、骨は土に還った。

それでも、誰も「会えなかった」なんて言わなかった

少し歴史を振り返ってみましょう。
かつて日本は、土葬が主流の時代が長く続きました。
遺体はそのまま大地に埋められ、年月をかけてすべてが自然に還りました。
骨を拾うことも、遺骨を保管することも、そして、今のように誰かが遺骨を引き継ぐ必要もありませんでした。

それでも、人々は故人を思い出し、仏壇や位牌で語りかけてきました。
“会えない”と嘆くより、“共にある”と感じる供養のカタチがそこにあったのです。

むしろ現代は、骨壺を物理的に“手元に置く”ことができるようになった分、
「会える・会えない」が“モノ”の有無に結びつけられてしまったのかもしれません。


「会える」とは、いったい何を意味しているのか?

ここで、もう一歩踏み込んでみましょう。
「会える」とは、視覚的に見ること? 手を合わせる場所があること?
それとも、心の中でその人と対話をすること?

私たちは日々、故人の面影を思い出し、言葉をかけ、お願いごとをし、悩みを聞いてもらうように語りかけています。
それはお墓の前でなくても、海の前でも、キッチンでも、通勤電車の中でもできることです。

つまり、“会う”という行為は、心の中の行為です。


商売のための“恐怖”に、心が支配されていませんか?

もちろん、すべての僧侶や仏具屋が悪意でそうした言葉を使っているわけではありません。
彼らもまた、長年供養の現場を支えてきた大切な担い手です。

しかし近年、墓じまい・自然葬・直葬などが増える中で、僧侶や仏具屋の仕事が減少しています。
こうした「変化」に対する抵抗として、
「遺骨を手放すのは罪」「会えなくなる」「祟りが起こる」など、
不安を煽るような言葉が使われる場面も目立ち始めています。

人は、不安と恐怖で動かされると、自分の意思を見失います。
供養という本来「心の安らぎ」のためにある行為が、
誰かの商売を守るための“道具”にされてしまっては、本末転倒です。


「想っていれば、どこでも会える」

その当たり前を、取り戻しませんか?

私たちが大切な人を失ったとき、
一番必要なのは「モノ」ではなく、「想い」です。

たとえば、ある女性が語ってくれた言葉があります。
「母の遺骨を海に還したあと、不思議と“手元になくても、ずっと一緒にいる”って感じるんです」

それは、遺骨を手放したことによる喪失ではなく、
むしろ、“想いだけが残ったからこそ”得られた深い絆でした。

人は、想いがある限り、何度でも心の中で故人に会えます。
それを“形がなければダメ”と否定することは、
心の自由な営みを、誰かの都合で狭めてしまうことになりかねません。供養のカタチは人それぞれです。そして、供養はどこにいてもできます。


供養は、自由であっていい

現代は、人生のかたちが多様であるように、
供養のかたちも、もっと自由であっていいはずです。

墓があっても、なくても。
遺骨があっても、なくても。
仏壇があっても、なくても。
心の中で語りかけ、想いを伝えることこそが、供養の本質です。

「遺骨がなければ会えませんよ」
その言葉に、少しだけ疑問を持ってみてください。
そして、自分自身の大切な人への想いを、
“あなたのかたち”で表現してみてください。

私たちは、そんな自由な供養を応援しています。

大分で墓じまい海洋散骨

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