2年前、最愛の母を亡くしました。しばらくは気持ちが不安定になり、涙が止まらないこともありました。母に対する後悔や無念な気持ちでいっぱいになり、何も手につかない時期もありました。けれど、時間が経つにつれ、母との楽しい思い出を振り返り、「母にとっても良い人生だった」と思えるようになりました。今では、母を身近に感じることもよくあります。
「お母さんは遠くに行ってしまったのではない、いつもそばにいてくれる」と思えるようになったのは、母のお骨を分骨して手元供養し、生活の中に母の存在を感じているからかもしれません。
そんな母との思い出、そして、手元供養を選んだ理由をお伝えしたいと思います。
「お墓はいらない」それが母の強い希望でした
私の母は、独特の死生観を持つ人でした。「自分が亡くなったら、墓石の下でみんながお墓参りに来てくれるのを待つよりは、自然に還りたい」と常々言っていました。
母が亡くなった後はその意志を尊重し、海洋散骨することにしました。ただ、私はどうしても母と離れるのが辛く、粉骨した遺骨を少し分けてもらい、自宅で手元供養することにしました。
メモリアルボックスの中には、笑顔の母の写真と、奥阿蘇産の石けん粘土で作られたフラワーソープ。そして親指サイズのミニ骨壺に、分骨してもらった母の遺骨を入れ、母のお気に入りだった指輪とともに飾っています。
大きな仏壇だと、やはり現代のインテリアにはなじまない場合もあります。けれどこの手元供養セットは、インテリアにもしっくりと溶け込み、日常の中で母の存在を感じることができるのです。仏壇に手を合わせるよりも、ずっと気軽に母に話しかけ、ときには愚痴を聞いてもらったり、励ましてもらったり。この手元供養のおかげで、私は母との思い出を、少しずつ整理できた気がします。
長年の介護を経て、祖母と母を、つづけて看取りました
私は、15年ほど前に離婚し、幼い子ども二人を連れて実家に戻りました。そのとき実家では、60代の母が、80代の祖母を自宅介護していました。いろいろな事情で、実家に帰ることになった私を、母はあたたかく迎えてくれました。そこから、祖母と母、私、そして子どもたちの、4世代でのにぎやかな生活が始まりました。
祖母が年を重ね、介護の負担も大きくなるにつれ、子どもたちは大きくなり、祖母のおお世話も手伝える年齢に成長しました。4世代でのにぎやかな生活は、子どもたちにとっても貴重な経験になったと思います。その中で、子どもの生活態度や教育を巡って、母と衝突したこともあります。ただ、互いに声を荒げることはあっても、そこはやはり母娘ですから、数日たてば、ケロッと忘れて、笑い合う日々でした。
祖母は99歳で自宅で亡くなりましたが、母にとっては長年の介護も大きな負担だったようで、その後寝込んでしまったのです。
最初は、介護疲れ、祖母を亡くした悲しみが原因だと思っていたのですが、あまりにも体調が悪いので、病院を受診したところ「悪性リンパ腫」と診断されたのです。
突然の病の宣告。長期入院、抗がん剤治療と、状況は一変しました。髪が抜け、やせ細っていく母を見るのは、とても辛い日々でした。過酷な抗がん剤治療を経て、治療もひと段落ついたと思ったところで、再発。祖母の看取りから1年半後に、母もホスピスで亡くなりました。
4世代のにぎやかで幸せな日々は今も続いています
悲しみと後悔に押しつぶされそうになりながらも、母と過ごした美しい日々を形に残したいと思い、手元供養を選びました。
「おはよう」「行ってきます」「ただいま」「今日はこんなことがあったよ」と、毎日話しかけていると、母の声が、聞こえるような気がするのです。それは子どもたちにとっても同じようで、部活や受験などで気合を入れたい日は、子どもたちもメモリアルボックスに触れ、おばあちゃんに話しかけています。
わたし自身、「サポートしてもらっている」「そばにいてくれている」と強く感じています。
故人との思い出空間が、心を癒してくれます
死生観や、供養に関する希望は、人それぞれです。私は手元供養によって、“死”を永遠の別れだと考えるのではなく、新たな関係の始まりだと思えるようになりました。時代の流れとともに、家族の在り方や生活スタイルが変化していくように、供養の形も、どんどん進化しています。 わたしの実体験から、現代の生活スタイルに合う手元供養を、より多くの方にお勧めしたいと感じています。新たな供養の形である「手元供養」をぜひご検討ください。