働き盛りと言えば聞こえは良いですが、私も40代の後半あたりからだんだんと体の不調が多くなってきました。
旧友に会っても、懐かしむ話はすぐにおしまい。メタボの心配と、健康トークの方が盛り上がるような年齢になってしまいましたね。
実は先日、大分市の実家近くに住んでいた学生時代からの親友が亡くなりました。葬儀では、40年近く会っていなかったような当時の知人友人とも再会して「あいつが引き合わせてくれたんだね」なんて話もしましたよ。
親友の葬儀が終わり、親族とも付き合いが長かった私は火葬場まで一緒に同行させてもらいました。
「お父さん、これだけ?」の言葉に涙
火葬場では、奥さんやお子さん、そして私が子どもの頃にお世話になったご両親、親族のおじさんたちと、しばし思い出話をしていました。
私は高校を卒業してから関東の大学に進学し、そのまま就職して大分市を離れたので、正直いえば大分県に対する愛着心よりも、今住んでいる場所の方が大事に感じられるようになっていました。
でも、間違いなく友人はずっとふるさと大分で、歳を重ねて家族を支えて、しっかり生き抜いたんだなと思うくらいに、ステキな思い出話ばかりでした。
火葬がほどなく終わり、中学生と小学生の友人の子どもたちもお骨上げに向かいました。
私は少し離れたところでその様子を見守っていたのですが…
「え…、お父さん、これだけ?」と小学生の娘さんがぽつんとつぶやいたんです。
友人は身長184㎝の大型で、スポーツマンだし働き者。骨格は立派なほうでした。それなのにまるで、”これっぽっち”とも聞こえるような悲しい声に、心がぎゅっとなりました。
火葬をすれば人間、こんなにも小さくなってしまうものなのか…。私もまた、彼を想って泣いてしまいましたね。
骨壺に入り切れなかった遺骨と偲ぶ心
人も最期はこんな姿になるんだな…将来に起こる現実と自分の生身を対比させているような、不思議な気持ちになりました。
そして、あんなに小さくなった故人の亡骸は、それでも結局骨壺に入りきれませんでした。娘さんは「全部もってかえるもん、パパがバラバラになっちゃう」と泣き叫んでいましたね。
私はこの時に遺骨はすべて骨壺に入らない、体の一部しか骨壺に納められないと恥ずかしながらこの歳で初めて知ったんです。
瞬間、「そんなことなの?じゃあうちの先祖の遺骨も全部じゃないわけ?」とどこか裏切られたような感情がわいたすぐ後に、ふと、私の頭の中がなんだかスッキリしたんですよね。
大事なのは、そこに遺骨があることじゃなくて、偲ぶ気持ちと思い出じゃないか。
私にとって亡くなった友人は、遺骨があるかないかで弔ったりお参りするわけじゃないんです。生前も「あいつ元気かな」と懐かしんだりしましたしね。
言い方に誤解されるかもしれないけれど、「生前は『体が大事だ』って言いながら、骨壺に入らないから仕方ないって、あちらの世界にいくときはまともに1体じゃないじゃん」と思ってしまったんですよ。
家墓がある自分のこれから
うちの実家にも先祖の骨壺が入ったお墓がありますよ。
両親にその時が来たら、これまでの流れで言えば私は、両親の遺骨をその墓に納めるでしょうね。
でも、自分がそこに入るか?と尋ねられると…考えられないんです。
私にとって先祖も両親ももちろん大事なのですが、ずっとそこに骨壺を納めていることには、モヤっとした罪悪感がいつもありました。
なんだか、放置、義務感、責任というのでしょうか。前向きなイメージがわきません。
きっと、ひんぱんにお墓参りが出来る所に住んでいない後ろめたさですよね。実際に、お墓の手入れが年1回すら出来ていないんですよ。
誰かにお願いするのもアリでしょう。そんな代行サービスがあると聞いたこともあります。
でも…、そこまでしてお墓って残さなければならないものなんでしょうかね。
無常だ残酷だ、親族を大事にしていない、とまた誤解をされるかもしれませんが、そんなつもりは全くありません。
面倒なことを手放すための言い訳でもありませんよ。
「残すこと」にこだわらない考え方もある
自分と同い年の友人が亡くなって、これまでよりずっと『死』がリアルになったんですよね。
私の両親はまだまだ元気ですが、友人のように親より先に逝くかもしれないわけですし。急に病気が見つかったり、交通事故であっさりと…なんて不謹慎に聞こえるかもしれませんがそういうことですよね。
生身で感情のある人間が、ある日突然、その体(物体)から活ける魂がなくなって抜け殻になる。
抜け殻に対していくら拝んでも拝んでも、それってなんだか違うなあ…大事にしてることにはならないなあと思ってしまったんです。
無くてもいいんじゃないかな、その遺骨。ずっとそこに置かれていて幸せなのかな…ってね。
自分が家墓に入ることを想像できないのも、残された人にとって現実的じゃないというのか。
墓に対して自分自身こだわりがなくて、先祖も大事にしたくて、それでいて自分が同じそのお墓に入ることに何か意味があるのか…。
子どもたちがわざわざ来て、墓の手入れをするのか?それを自分が強いることにならないか?
こんなふうにいろいろ考え始めたら「残すことへのこだわり」が分からなくなりました。
残さずに還るのが自然なこと
友人の遺骨が骨壺にすべて入らなかった、火葬場でのあの時からずっと「残った灰や骨はどうなるんだろう」と気になっていたんです。
地方によっては、どうにかして遺骨や遺灰を納めようとする所もあれば、頭蓋骨とのど仏だけを骨壺に入れてその他は置いて帰るところもあるらしいですね。
自治体が残灰処理をしているところもあるそうですが、火葬場にある遺灰や遺骨は専門業者が引き取って、きちんと処理を施した後に、その多くが草木花の肥料に使われるという話を聞きました。
生命って巡るんだなと、清々しく感じましたね。
これまで、いろいろと考えましたよ。そして、「骨壺と残灰にわざわざ分けて扱わなくても、すべて自然の循環に任せればいいのに」というところに行き着きました。
先祖の遺骨も含めて、骨を残さずに自然に委ねる。これが、これまでもこれからも、家族誰もがへんな責任感や義務感もなく、素直に故人を想える方法だと思います。純粋にね。
私の両親はきっと、この話は受け入れにくいでしょうね。ずっとお墓を守ってきてくれていますから。
でも、私の妻と子どもにこの話をすると、とても良い反応をしてくれましたよ。
子どもなんて「骨をちょっとだけ残してお守りにする」って言っていました。それもアリでしょう。ぜひ、肌身離さず持っていて欲しいですね。
亡くなった友人が気づかせてくれたこと、これまで家墓を守って来た両親、自分が所帯を持って幸せに未来を考えられる環境、すべてに感謝の気持ちが湧きましたし、出来ないことも変えていく大切さも感じています。
自分がこの世からいなくなった後のことを、少し明るく考えられるようになった気がしています。だって、昔はみんな死んだら自然にかえっていたのですからね。